昨日、私は大阪の、とあるビルの地下にいました。地上では、多くの人が待ち望んだ「なにわ淀川花火大会」が開催されている時間です。
ふと、隣にいた一人の女性が、静かに耳を澄ませる仕草をしました。
「・・・花火の音が聞こえる・・・」
そうつぶやいた彼女の言葉に促され、私も静かに耳を澄ませてみました。すると、鉄筋コンクリートと土に阻まれたはずの空間に、ドーン、ドーンと、たしかに遠くからかすかな音が響いてくるではありませんか。
私たちは地上から隔絶された地下にいます。鮮やかな光も、夜空を彩る大輪の花も、ここからは一切見えません。
しかし、その女性は、聞こえてくるわずかな音に顔を向け、まるでその音一つ一つを味わうように目を閉じました。
「音だけ楽しむ」
彼女はそう言って、その短い時間を満喫しているようでした。その姿を見た瞬間、私は自分の胸が締め付けられるのを感じました。

希死念慮と「恥ずかしい」という感情
実は、私は長く希死念慮を抱えて生きています。「今」が常に苦しく、未来への希望も持てず、人生の全てがつまらないものに見えています。花火大会と聞いても、「どうせ混んでるだけ」、「騒がしいだけ」と、無意識のうちに楽しむことを否定していました。
そんな私にとって、「音だけ」という限定的な状況の中で、自ら積極的に「今、ここにあるもの」から喜びを見つけ出そうとする彼女の姿は、衝撃でした。
美しいもの、楽しいものを見るためには、最高の場所、最高の状況が必要だと、私は勝手に思い込んでいたのです。完璧な条件が揃わないなら、意味がないと。そして、その完璧な条件が手に入らない現状を嘆いてばかりいました。
完璧な光景が目の前になくても、彼女は聞こえる音に意識を集中させ、自分の中でそれを「花火の音」としてとらえなおし、楽しんでいた。それは、「楽しさは、与えられるものではなく、今あるものの中から見つけ出す、能動的な行為なのだ」と教えてくれました。
欠けた状況で、光を見つける
私を苦しめる希死念慮は、いつも私に「あなたは欠けている」、「あなたは不幸だ」とささやきます。だからこそ、彼女のように「状況が欠けていても、そこから楽しさを見つけよう」という発想が、私には全くなかったのです。
「音だけ楽しむ」という言葉は、私にとって、ただの花火鑑賞の話ではありませんでした。
それは、「命がけで生きなくても、人生にはまだ楽しめる余地があるよ」、「完璧な幸せじゃなくても、この一瞬の音だけでも楽しんでみない?」と、私の凝り固まった心を優しく揺さぶるメッセージのように感じられました。
人生の「色」や「光」が見えないくらい苦しい時でも、たった一つの「音」に集中して目を閉じるだけで、世界は少し違って見えるのかもしれない。
そして、不完全な状況を嘆くのではなく、「この不完全な状況だからこそ、この音は貴重だ」と、とらえなおすことで、苦しみから一瞬、解放される道があるのかもしれません。
私は今も苦しい毎日を送っています。ですが、あの地下で聞いたかすかな花火の音と、その女性の姿を思い出すとき、心に一つの小さな問いが生まれます。
「ねえ、今のこの状況で、私に楽しめるとしたら、何があるだろう?」
あなたももし、今が苦しくて、人生の楽しみを見失っているとしたら、目を閉じて耳を澄ましてみてください。完璧な花火の光景は、今は見えなくてもいい。
どこか遠くで、小さな音が聞こえてくるかもしれません。その「音だけ」を、楽しんでみてもいいのです。

